エベレストベースキャンプ5364mで2連泊した後、カラパタール5550mに登頂してから帰国に向け下山を始める予定だったが、起床の5時半に降雪のためカラパタール中止の連絡があった。 テントから外を見ると雪とガスで真っ白になっていた。 深夜1時頃にトイレで外に出たときは満天の星で、アイスフォールにはヘッドランプの灯りも見えていたのに、とても残念だった。 起床は7時に変更され、7時半の朝食後、8時半にカラパタールの代わりのアイスフォール見学に出掛けた。
4月25日:エベレストBC(9:06)→ゴラクシェプ被災(11:20/13:30)→ディンボチェ(18:51)
アイスフォールの末端部を見学
9時にエベレスト&ローツェ登頂隊に別れを告げる
11:56ネパール大地震発生 休憩していたゴラクシェプのロッジから慌てて外に出た。 この後、エベレストベースキャンプを襲った雪崩の末端の暴風雪がやってきて、半パニックになった。
トゥクラの集落の地震被害
ペリチェに向かう予定だったが、ペリチェは被害が大きく宿泊できないとのシェルパ情報があり、急遽ディンボチェに向かう
ディンボチェのロッジに着いたのは、もう暗くなってからだった
4月26日:ディンボチェ(7:58)→ディボチェ(11:34/12:49)→ナムチェ・バザール(18:00)
落石で埋まった登山道は、余震がないことを祈りながら小走りに通過する
ナムチェ・バザールに到着したものの、宿泊しようとしたロッジは営業していない。 余震が怖くて、みな高台にテントを張り、避難していたようだった。
4月27日:ナムチェ・バザール(8:02)→ルクラ(17:40)
ナムチェ・バザールは建物が密集しているだけに、崩れている箇所も多い
登山道は崩壊して迂回しなければならない箇所があったが、吊橋はどこも渡ることができた
ルクラに到着しトレッキング終了
ルクラの店舗の多くは閉まっていたが、建物に影響はないように見えた。 宿泊予定のロッジは営業しており、エベレストBCで別れた筈の2名が迎えてくれた。 負傷(打撲)して、ヘリで救助されたとのことだった。
4月28日:ルクラ滞在
カトマンズへ帰るために6時から空港に詰めていたが、13時過ぎに、天候が悪くこの日は飛行機が飛ばないと言われ、ロッジに戻った。
4月29日:ルクラ(9:30)→カトマンズ(10:30)
ルクラの街はカトマンズに戻りたいトレッカーで溢れていた。 ロッジも満室で、飛行機が来ないと物資が不足してくるだろうと噂にもなった。 現地手配会社の提案で、ツアーメンバー6人揃って飛行機に乗ることは諦めて、一人ずつでも空席があればカトマンズに帰ろうということになった。 6人でくじを引いた結果、運よく、私が一番くじを引いてしまった。
航空機内
空港からホテルまでの建物は鉄筋コンクリート造が多く、地震の被害はほとんど見られなかった。 ただ、公園などの広場では避難用と思われるテントが多く張られていた。
4月30日:カトマンズ滞在(飛行機遅延のため、ハイアット・リージェンシーへ)
ルクラで残った5人のメンバーは、チャーター便を手配して、16時ごろ全員カトマンズに戻ってきていた。 ロブチェ登頂隊全員は、23:30発の便でカトマンズから脱出できる予定だった。
カトマンズの空港は混雑していたが、搭乗手続きは予定通り完了した。 搭乗ゲート前で待っていると、場内放送で、今日のフライトはないとアナウンスがあり、この日は航空会社の手配で、ハイアット・リージェンシーに宿泊することになった。
5月1日:カトマンズ(14:30)→ダッカ→クアラルンプール(23:30)
カトマンズの空港は駐機場が小さい上に、地震の影響で救援物資や救助隊を運ぶ航空機が優先され、旅客機がなかなか駐機できないと聞いていた。 昼過ぎになって、マレーシア航空が一機着陸し、その飛行機に乗ることができた。
4月30日14時半、定刻から15時間半の遅れで出発した。
2日:クアラルンプール(10:50)→成田(19:00)
飛行機の窓から富士山が見え、無事に帰国できたことを実感した。